お好み村をご存じですか?
ー調査旅行の中でわかった悲話ー
私たちが、広島へ調査旅行に出かけたのは2003年3月下旬(二泊三日)、2004年3月(二泊三日)、2004年12月(一泊二日)の3回になります(2005年2月現在)。毎回13〜19名くらいの生徒数です。
広島へ初めて出かけたとき、やはり広島での食事では一度くらいは本場の「広島焼き」を食べたいと思い、2003年3月の調査旅行ではJR広島駅の駅ビル内の広島焼き店で昼食をとりました。2回目の調査旅行である2004年3月には、旅行雑誌で「お好み村」という広島焼き店が30店舗近くも集合したビルの存在を知り、そこで夕食をとりました。
お好み村ビルの一階玄関には、ジュースの自販機の横に「お地蔵様」が立たれていました。このお地蔵様は、私たちが普段、町内の地蔵盆などで見かけるお地蔵様よりも背丈が高く、また、足下には水が湛えられてあったのです。
<人々のお地蔵様の認識>
・お好み村は修学旅行生たちが自由行動で行ったり、観光客が多く来られるスポットでもあります。
・しかし、お好み村で食事をされた家族連れ、カップルなどに聞き込みしてみると、ほとんどのみなさんがお地蔵様の存在に気づいていない。
私たちは、このお地蔵様のことを知りたく、2004年12月の広島再訪へ向けて、電話でいろいろと調べてみました。
調べていく中で、お好み村のビルのオーナーさんである住田株式会社の先代の社長様である住田一也氏が建てられたことを知りました。
そこで、2004年12月の調査旅行では、お好み村を食事場所にし、食事の前に、住田株式会社の現代表取締役でいらっしゃる小西光信氏にお願いし、お地蔵様の前まで来ていただき、その悲話を教えてもらいました。
小西氏から教えていただいた悲話については、住田一也氏の書かれた「シンガポール抑留記」(左の書籍)の「いっちゃいけんと泣いた妹」の章に詳細が書かれています。以下に悲話を紹介するとともに、次代を担う私たちこそは二度とあの時代に戻ることがあってはならないと平和への決意を新たにするものです。広島へ観光に行かれ、お好み村で食事される機会がありましたら、この悲話のことを思い出して下さい。
| いっちゃいけんと泣いた妹 昭和八年(一九三三)に私は、広島市立商業学校(現在の観音高校の場所)に入学。当時の学校はどこでもそうだったが"教練″という科目があって、現役の配属将校から'鉄砲のさげ方や射撃の教練などを受けた。学校といっても、軍人の二軍を養成しているようなものだったから、勉強より軍事教練の方が重視された。こうして、私達の年代の人間は、貧しさと戦争の中で育っていったのである。ちなみに私は卒業までの五年問、学校まで片道一時間の道を歩いて無休無遅刻で通したが、これは勉強嫌いの私にしてはよく頑張ったと、我ながら感心している。そのおかげで、歳をとってからも足腰には自信がある。 昭和十四年(一九三九)、市立商業学校を卒業した私を、酒屋の長男ということもあって父は、大阪へ丁稚奉公に出すことを決めていたようだ。ところが、世は国を挙げて戦いの時代であり、三、四人いた従業員がすべて徴用で軍需工場にとられてしまった。そこで、父は仕方なく私を広島にとどめて、店の手伝いをさせることにした。ここからの三年間、私は人生の中で最も優雅とも言えるような時を過ごした。当時、市立商業時代の親友に梶本正雄氏(現かじもと家具会長)と塩飽栄一氏(その頃父親が漁具販売をしていた)がいたが、父が甘やかせてくれるものだから、それこそいい気になって三人が入隊するまでの間スキ-やスケート、スカール(二人乗りボート)にうつつをぬかし、夜は夜で、まだ未成年なのにいっばしの若い者ぶって花街を飲み歩いた。この時期だけは私にとっては、ソ満国境・ノモンハンで日ソ軍が衝突して、一万数千人の日本軍兵士が死傷するなど、国民挙げて戦っていることも、経済面では労働力を兵隊にとられ日本全土で米不足になり、国民が空腹にじっと耐えていることも、どこ吹く風といったやりたい放題の生活だった。 だが、人生というものはそういつまでも、しかも世の中の動きに逆らっていては、楽しい生活が続くわけがない。昭和十六年(一九四一、大東亜戦争が始まるとすぐ、現役兵として招集され、翌十七年七月十六日、暑い盛りに宮崎第九航空教育隊西部第一〇一部隊に入隊することになった。仲のよかった三人の内、塩飽氏は残念なことにその後ボルネオ島で戦死してしまった。 いよいよ私が宮崎へ出発する日、当時八歳だった妹の文子が、広島駅のホームに立った私の足にすがりついて、「お兄ちゃん、行っちゃいけん、行っちゃいけん」と、大声で泣きながら離そうとしなかった光景は、五十年の歳月が流れた今でも、瞼に焼き付いて離れない。この妹は、昭和二十年八月六日の、あのいまわしい原爆の犠牲になってしまった。広島女学院の一年生で、疎開作業に出ていて原爆にあったと、戦後聞いた。もう一人の弟・照雄までも原爆の犠牲になったと聞いた時のショックは、一生消えることのない深い悲しみとして私の心に残っている。それにしても、戦地に赴いた私が生き残り、広島にいた妹や弟が戦争の犠牲になるとは、なんとも運命とは皮肉なものである。 平成四年(一九九二)一月二十八日、広島市中区新天地に二十五年ぶりに改装した、広島の名所"お好み村″のある新天地ブラザビル。このピルの入り口に、高さ一・七メートルの御影石の「新天地地蔵尊」を建立したのは、妹の文子(当時十二歳)と弟の照雄(当時九歳)の二人をはじめ、原爆の犠牲になった多くの子供達を慰霊すると共に、お好み村を訪れる人々に半世紀前のこの悲劇を知ってもらい、こうした悲劇が二度と起きない世の中をつくってもらいたいとの願いからである。 「わが青春の記録−シンガポール抑留記」(住田一也著)より |